むかし、海辺の村に、浦島太郎という若い漁師がおりました。
ある日のこと。浜辺を歩いていると、子どもたちが何かを囲んで騒いでいます。大きなカメが一匹、ひっくり返されていたのです。
「やめなさい。かわいそうだよ」
太郎はカメをそっと起こして、海に返してやりました。カメは何度も振り返りながら、ゆっくりと波の中に消えていきます。
何日か経った朝のことです。太郎が海に出ると、波の間から大きなカメが顔を出しました。
「太郎さん。先日はありがとうございました。お礼に竜宮城へお連れしましょう」
太郎がカメの背中に乗ると、海の中へ静かに潜っていきます。水はどこまでも澄んでいて、太陽の光が水の中にまっすぐ差し込んでいました。
色とりどりの魚が泳いでいます。赤い魚、青い魚、金色の魚。サンゴ礁がピンクや紫に輝いて、まるで海の花畑のようです。
くらげがふわふわと漂っていきます。その体が光を通して、宝石のように透き通っていました。
やがて、海の底に光り輝くお城が見えてきました。竜宮城です。
門のところに、美しい乙姫さまが立っていました。長い黒髪が波のようにゆらめいて、白い着物が光をまとっています。
「ようこそ、竜宮城へ。カメを助けてくださったお礼に、どうぞゆっくりしていってくださいまし」
竜宮城の中は夢のようでした。珊瑚の柱が赤く輝いて、真珠の玉が天井からぶら下がっています。床は磨かれた貝殻でできていて、歩くたびにきらきらと光りました。
広間では鯛やひらめが舞い踊っています。ごちそうが次から次へと運ばれてきて、どれもこれも見たことのないおいしさです。海藻のお吸い物は、ほんのり潮の香りがして、体の芯まで温まりました。
窓の向こうには、四つの部屋がありました。春の部屋に入ると桜の花びらがはらはらと舞って、甘い香りに包まれます。夏の部屋にはせせらぎが流れ、ひまわりが太陽に向かって咲いていました。秋の部屋では紅葉が燃えるように赤く染まり、冬の部屋には白い雪が静かに降っています。
乙姫さまは毎晩、太郎に琴を弾いて聞かせてくれました。その音色は波のようにやさしくて、聞いていると心がふうっとほどけていきます。
太郎は毎日が楽しくて、あっという間に日が過ぎていきました。
けれど、ある日ふと、お母さんのことが頭に浮かびました。
「そうだ。お母さんが待っている。帰らなくては」
乙姫さまに伝えると、乙姫さまは寂しそうに目を伏せました。
「どうぞ、これをお持ちください」
乙姫さまは美しい玉手箱をくれました。赤と金の漆塗りで、貝殻の細工が施してあります。
「ひとつだけ、約束してくださいまし。この箱は決して開けてはなりません」
「わかりました」
太郎はカメの背中に乗って、海の上へ帰っていきました。
浜辺に着いて、村を見回すと、何かが違います。知っている家がありません。知っている顔もありません。
竜宮城で過ごしたのはほんの数日のつもりでしたが、地上では何百年もの時が流れていたのです。
太郎は途方に暮れて、手の中の玉手箱を見つめました。乙姫さまとの約束が頭をよぎります。
けれど太郎は、そっとふたを開けてしまいました。
白い煙がふわりと立ちのぼります。煙の中から、乙姫さまの声がそっと聞こえてきました。
「太郎さん。いつでもわたしのことを思い出してくださいね」
太郎の髪が白くなり、体が少しだけ重くなりました。けれど不思議と、心は穏やかです。乙姫さまの声が、胸の奥であたたかく響いていたからです。
太郎は浜辺に座って、海を眺めました。夕日が水平線をだいだい色に染めています。波が静かに寄せては返して、やさしい音を立てていました。
遠くの海の底で、竜宮城の灯りがほんのりと光っています。あの美しい場所で過ごした日々のことを、太郎はいつまでも忘れないでしょう。
波の音が、子守唄のように静かに響いていました。