むかし、駿河の国の三保の松原に、白龍という名の漁師が住んでおりました。
ある春の朝のことです。白龍が浜辺を歩いていると、松の枝に美しい衣がかかっていました。薄く透き通った布が、朝の光を受けてきらきらと虹色に輝いています。
「なんと美しい衣だろう」
白龍が手を伸ばすと、波打ち際のほうから声がしました。
「どうか、その衣を返してください」
振り向くと、若い女の人が立っています。黒い髪が風になびいて、その姿はまるで月の光が人の形になったようでした。
「わたしは天女です。その衣がなければ、天に帰ることができないのです」
天女の目に涙が光っています。白龍は衣を渡そうとしましたが、ふと立ち止まりました。
「天女さま。お願いがあります。天女の舞を一度だけ見せていただけませんか。この浜で踊ってくださったら、衣をお返しします」
天女はうなずきました。
「約束してくださいますか」
「もちろんです」
白龍が羽衣を天女に渡すと、天女はそれをふわりと肩にかけました。衣が風にひるがえって、虹色の光が浜辺にちらちらとこぼれます。
天女が舞い始めました。
一歩踏み出すたびに、砂の上に花が咲くようでした。両手を広げると、袖がふわりと風にのって、空に溶けていくように揺れます。足首がくるりとひるがえるたびに、鈴のような音がかすかに聞こえました。
くるりと回ると、衣の裾から光の粒が散ります。金色に、銀色に、虹色に。光が浜辺の砂をきらきらと照らしました。
天女が両手を高く掲げると、空の雲が形を変えて、花の姿になりました。波が静かに寄せて返し、松の葉がさらさらとそよぎます。海の向こうから富士山が、うっすらと姿を見せていました。
舞は春から始まって、夏を巡り、秋を過ぎ、冬を越えました。天女が踊るたびに、季節の香りがふわりと漂います。桜の香り、潮風の匂い、金木犀の甘さ、雪の冷たい透明さ。
白龍はただ見とれていました。浜に集まってきた人たちも、息をのんで見つめています。
やがて天女は、ゆるやかに空へと昇り始めました。衣が風をはらんで、ふわりふわりと高く。
白龍が見上げます。天女はにこりと微笑んで、小さく手を振りました。
「ありがとう。あなたはやさしい方ですね」
天女の姿は、富士山の上にかかる雲のあいだに、すうっと消えていきました。あとには羽衣の香りだけが、ほのかに残っています。花のような、月の光のような、不思議にやさしい香りでした。
白龍はしばらく空を見上げていました。目の奥に、天女の舞の残像がきらきらと揺れています。
それからというもの、白龍は毎年春になると三保の松原を訪れて、あの日のことを思い出しました。松の木の枝には何もかかっていません。けれど春の風が吹くたびに、どこからか羽衣の香りが漂ってくるような気がするのです。
春の風がそよりと吹いて、松の葉が歌うように揺れます。波がとぷん、とぷんと静かに寄せて、浜辺を洗っていきました。
富士山の頂きに夕日が沈んで、空が淡い桃色に染まっています。三保の松原に、夜のとばりがゆっくりと降りてきました。