ある日のことです。お釈迦さまが、蓮の池のふちを静かに歩いておられました。
池の蓮の花は、真っ白に咲いていて、あたりにはよい香りが漂っています。朝の光が花びらを透かして、金色に輝いていました。
お釈迦さまがふと池の下をご覧になると、はるか遠くの暗い場所が見えました。そこには大勢の人たちが、苦しみながら暮らしています。
その中に、カンダタという男がいました。カンダタは泥棒をしたり、人をだましたり、悪いことばかりしてきた男です。
けれどお釈迦さまは、カンダタがたった一度だけよいことをしたのを覚えていました。道を歩いているとき、小さな蜘蛛を見つけて、踏みそうになったのに足を止めたのです。
「小さいけれど命には変わりない。助けてやろう」
カンダタはそう言って、蜘蛛をよけて歩きました。
お釈迦さまはそのことを思い出して、カンダタを助けてやろうとお考えになりました。蓮の池に蜘蛛がいるのを見つけて、その糸を一本、暗い場所へ降ろしてやります。
銀色の蜘蛛の糸が、きらきらと光りながら、まっすぐに降りていきました。
カンダタがふと見上げると、暗い空の遠くのほうから、一筋の銀色の糸が降りてきます。
「これを登れば、ここから出られるかもしれない」
カンダタは両手で糸をつかんで、ぐいぐいと登り始めました。もとより泥棒をしていた男ですから、こういうことは得意です。
けれど、ずいぶん登ったところで下を見ると、大勢の人たちが同じ糸につかまって、ぞろぞろと登ってくるではありませんか。
「やめろ。この糸はおれのものだ。降りろ、降りろ」
カンダタが叫んだとたん、蜘蛛の糸がぷつりと切れました。カンダタは暗い場所にまっさかさまに落ちていきます。
お釈迦さまは悲しそうに、蓮の池のふちに立っておられました。
自分だけが助かろうとする心が、糸を切ってしまったのです。蜘蛛を助けたときのやさしい心を、カンダタは忘れてしまいました。
蓮の花はそよりとも動きません。白い花びらのあいだから、甘い香りが静かに漂っています。
蜘蛛は何も知らずに、蓮の葉の上で糸を紡いでいます。銀色の糸が朝の光を受けて、小さな虹を作っていました。
お釈迦さまはそっとため息をつかれました。やさしい心を忘れなければ、カンダタは今ごろ蓮の花のそばにいたのに。
池の水面に空が映っています。雲がゆっくりと流れて、蓮の花がほんのりと揺れていました。静かな静かな、お昼近くのことでございます。